|
はじめに
通常、トラベラーズワクチンというものは、感染症が多発している国・地域へ旅行あるいは滞在する人が、そこで流行している感染症に罹患しないようにするため、すなわち自己保身のために使用されるワクチンというイメージがある。この考えは間違ってはいないが、日本よりワクチン接種が徹底され、流行を抑制している場所へ、日本人が感染症・流行を持ち込まないようにするために使用されることも忘れてはいけない。ここでは、前者の場合に限定して述べるが、厳密にいえば地域・国によって流行している疾病が異なる(表1)ので、それぞれに応じた対応が必要になる。
渡航先の代表的な感染症
狂犬病は発病すればほぼ100%が死亡する感染症である。ウイルスはイヌだけでなくキツネ、アライグマ、コウモリなども保有しており、それらに咬傷されて感染する。
日本脳炎は日本脳炎ウイルスを保有する蚊の刺咬によって起こる重篤な急性脳炎で、死亡率が高く、後遺症を残す例も多く認められる。
A型肝炎は食べ物により経口感染する。アジア、アフリカ、中南米に中・長期に滞在する人は注意が必要である。
B型肝炎は、B型肝炎ウイルスを保有した母親から生まれる新生児期の母子感染と、性行為を通じた感染の2つが主な原因となっている。その他に輸血や医療従事者の針刺し事故など血液を介した感染も忘れてはいけない。
破傷風菌は世界中の土壌の至る所に存在し、日本でも毎年50〜100名の感染報告があるほどである。途上国では先進国より医療事情が十分でない場合があり、怪我をする可能性のある旅行者には破傷風トキソイドの接種が必須である。
東南アジア方面への旅行者数と接種率
日本から東南アジア諸国への入国者数は1000万人/年を超えるといわれている。仮に一度の旅行で平均2カ国へ入国しているとすれば、東南アジアへの出国者数は500万人となる。また、リピーターが半分と仮定すると、初めて旅行する人の数は250〜300万人と推測される。
一方、パスポート取得者数が360万人/年であり、そのうち65%といわれている東南アジアへの旅行者率から計算すると、初めて東南アジアへ旅行する人の数は230万人となる。いずれの方法で計算しても、毎年少なくとも250万人程度の初旅行者がいることになる。
それに対して、A型肝炎ワクチンの生産量が約10万ドーズ、狂犬病ワクチンが4〜5万ドーズである。それぞれ2回接種したと仮定すると、5万人、2.5万人しか接種していないことになり、それぞれの接種率は2%、1%程度である。この接種率の低さは旅行者の感染症に対する危険度認識の低さを物語っているといってよい。
トラベラーズワクチンの課題
トラベラーズワクチンの課題を表2にまとめた。製造、使用そして行政面それぞれに課題が存在する。
接種スケジュール
不活化ワクチンは1〜4週間隔で複数回の接種が必要である。また、弱毒生ワクチンは、次のワクチンを接種するまで27日の間隔をおくことが求められている。このように、旅行者が必要なワクチンを接種するために要する期間は、接種が必要とされるワクチンの種類によってことなるものの通常は長期間になる。医師が必要と認めた場合は複数ワクチンを同時に接種することが認められてはいるが、予防接種に詳しい医師でなければ実施していないのが実情であろう。
混合ワクチンの開発が望まれるところであるが、どのようなワクチンの混合化が重要であるかなどの議論が必要であろう。
旅行者への啓発
日本にワクチンがありながら、使用されず外国を旅行するときに慌てて接種するケースが多い。国民の感染症に対する認識の低さに起因するものであろう。今以上の啓発が重要と思われる。また、感染症の流行地へ旅行する場合の自己保身の常識を教えてくれる旅行業者も少ないと聞く。旅行者を最も啓発できる機会は、旅行者がパスポートを取得する時とスケジュールをセットする時である。前者の場合には、公的機関から一般的な啓発が行われているものの、具体的な旅行先が明確でない場合が多いので、それ以上のくわしい指導は行われない。後者の場合は、大半は旅行業者の斡旋によることが多く、具体的な旅行プランも明らかである。私が常々思うことは、旅行業者には、旅先での感染症の危険度及び予防接種の重要性を説明する義務を持たせてはどうか、ということである。
ワクチンの製造法
トラベラーズワクチンと称されるワクチンは、日本国内であまり意識されていないことが多いので、使用量(≒製造量)も多くない。このことはスケールアップの必要性が高くなく、開発当初の手作業で製造する水準にとどまっている理由でもある。例えば、ヒトの狂犬病ワクチンの製造法を図1に示す。
入荷したSPF鶏卵をおよそ7日間孵化した後に、胎児を取り出しCE細胞を調製する。次に、種ウイルスを接種し、培養後増殖したウイルスを回収・不活化する。数バッチの不活化ウイルス液をまとめて濃縮・精製・ろ過を経て、最終バルク調製し、小分け・凍結乾燥して製品が出来上がる。先述のように使用本数が少ないこともあり、製造工程の大半は手作業あるいは半自動で行っており大量に製造することが困難で、急激な需要拡大に対応することも容易ではない。原料である1万個のSPF卵の調達から2万本弱の製品供給まで1年弱の期間を要する。仮に旅行者への啓発が浸透し、接種率が急増しても、十分量の製品を供給できるようにするのは容易ではない。
また、生産性の向上は製造方法の一部変更を意味し、変更内容によっては臨床試験が求められる可能性もある。先述の混合化とも共通するが、国内で流行が少なく、危機感も薄い病気を予防するためのワクチン治験ボランティアの問題、有効性をどのように証明するかの治験プロトコールも容易ではない。
おわりに
トラベラーズワクチンについては、製造する側、使用する側(行政・医療機関)そしてワクチンを接種される側それぞれに課題を抱えている。今回は主として製造する側の立場に立った考えを述べた。今後、多くの関係者たちが多方面から議論するきっかけになれば幸いである。そして、海外旅行者が少しでも今以上に安全に旅行できるようになればと願うものである。
旅行者数、渡航先及び旅券発行数などは、法務省、厚生労働省検疫所、外務省のホームページを参考にしました。
|