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Word Focus TOPページへ戻るNo.83        (第8回トラベラーズワクチンフォーラム報告)
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渡航医学(旅行医学)の特徴とワクチン
接種のあり方
  国立感染症研究所感染症情報センター 
                  室長 木 村 幹 男

1.序
 「渡航医学」とは“Travel Medicine”の日本語訳であるが、我が国では「旅行医学」の訳語で語られてきた。しかし、“Travel”とは広く人の移動、しかも主に国境を越える移動を意味しており、その中には観光旅行(tourism)も含まれるが、それだけでなくビジネス、途上国援助、学術調査など様々な形での人の移動が含まれる。また特に欧米諸国では移住者、難民、不法滞在者などのいわゆる“Migrants”としての人の移動も盛んである。この様に、種々の形での人の移動に伴う健康問題を包括的に扱う専門分野がTravel Medicineであり、我々のグループでは「渡航医学」の訳語に変えつつある。本稿では、他の専門分野と比べたときの渡航医学の特徴を述べ、さらに渡航者のワクチン接種のあり方につき、著者の考えを盛り込みつつ述べることとする。

2.渡航医学の特徴
a.学際的専門分野
 渡航医学の実践の場、すなわちトラベルクリニックでは感染症に限定することなく、個々の渡航者の健康問題を全て扱う。渡航医学を専門とする医療従事者は感染症分野からの出身者が多いが、機内における健康問題、慢性疾患を有する渡航者の問題、場合により高山病、潜水病など多方面での知識と経験が必要とされる。主に予防の問題を扱うが、自己治療/スタンバイ治療、帰国後の国内医療機関における診断や治療の問題も扱う。渡航中のリスク評価については、渡航者個人の考え方や行動パターンの適切な把握が必須であり、予防手段のための費用、時間(特にワクチン接種)なども考慮する必要がある。また、これらを効果的に行なうには渡航者、旅行会社、航空会社など非医学部門との緊密な連携も必要となる。この様なことから、渡航医学は従来の医学の枠内にとどまるものでなく、広く社会の中に位置づけるべきものである。
b.情報収集手段
 渡航医学においては、現地での感染症のみならず、気候、治安、災害などの動きをリアルタイムで把握することが必要である。そのため、電子メールを利用した世界各国の関係者とのコミュニケーション、CD-ROM、ウエブサイト(有料のものを含む)などを利用しての情報収集が望まれる。筆者は以前からこれらの手段に関心を持ち続け、国際旅行医学会(ISTM)が運営するListserv(いわゆるメーリングリスト)の投稿内容につき、一部の日本語抄訳を作成し、国内の関係者に広く配信する活動を行なってきた。この場合、でき上がったものを1件ずつ日本渡航医学会のListservに配信するが、その後、冊子にまとめている。我が国における関係者からも、「普段疑問に感じていたことをフリーにディスカッションしていて、大変参考になった」などの意見が出されている。ここでのディスカッションでは確固とした結論に至ることは必ずしも多くはないが、渡航医学では種々の観点があることの反映であり、この様なディスカッションは今後の発展に必須と思われる。現在の問題は、我々日本語抄訳者の時間的負担であり、今後も継続するには策を練る必要がある。
 筆者は1998年よりイスラエルのGIDEONを使用している。これは渡航医学に限定したものでなく、感染症全体の総合的プログラムであり、以前はCD-ROM版のみであったが、最近ではウエブ版もできて充実してきた。「疫学」、「診断」、「治療」、「微生物学」の4種類のモジュールからなるが、渡航医学では特に「疫学」が役に立つ。そこでは約350種類の感染症につき、世界各国での疫学データが収載されている。筆者は個人的には「診断」の方に関心を持ち、輸入感染症の症例を用いて検討を行い、最終的に、「GIDEONの診断には問題もあるが、それらの問題を理解して使えば有用な手段である」との結論で論文発表した。現代は書籍だけを利用して診断を試みるのでなく、コンピュータ診断も活用すべきであると思われる。
 渡航医学に直接役立つプログラムとしては、ヨーロッパのTropimed、米国のTravaxが挙げられるが、GIDEONと同様にCD-ROM版、ウエブ版の両者がある。筆者は前者については2001年から、後者については2004年から使用している。前者の方は箇条書きの記載が多く、短時間で理解するのに適しており、後者は長い文章を多用しているので、詳細な情報を得るのに適している。また、後者の権利を購入すると、殆ど毎日の様に特定国における感染症や治安の問題、あるいは最新文献の紹介などが電子メールで配信される。これらの情報のみを機械的に使用することには問題もあるが、適切に使用すれば大変に有用な手段と思われる。
c.渡航医学の“質”の問題
 世間では渡航医学の専門性が十分に認識されてなく、安易な収入源とみなされる可能性がある。また、医療従事者においても同様な認識不足があると思われる。その一因として、渡航医学は主に予防を扱うものであり、予防の分野においては“質”の善し悪しが周囲に明らかになりにくいことが挙げられる。このようなことから、海外においても渡航医学の“質”の維持や向上のための施策が行われている。
 ドイツでは2000年に国内共通の渡航医学認定制度が発足した。それは、ドイツ熱帯医学国際保健協会(DTG)が示す標準カリキュラムに従って行われる計32時間の基礎コースを受講し、その後90分40問の試験を受け、正答率が60%以上の場合に認定する制度である。また、認定後には3年毎に更新コースの受講が義務づけられるが、そこでは基礎コースにおける知識の取得を前提とし、その後に進展したり変更された点を理解し、絶えず向上することが求められている。このDTGにおける認定は、同国における黄熱ワクチン接種機関の認定に重要なものとなっている。筆者らはその標準カリキュラムを入手し、検討したが、渡航医学の幅広さを示す内容であった。また、南アフリカではWitwaterstrand大学がオーストラリアのJames Cook大学と共催で、100時間の渡航医学研修コースを開いているが、これも同国における黄熱ワクチン接種機関の認定に役立つものである。
 これに対して英国では、2002年より渡航医学専任機関(NaTHNaC)を稼働させている。日常業務は医療従事者からの電話相談に答えることであり、年間1万2000件を処理している。また文献などの検討により、絶えず渡航医学関係のデータ、エビデンスの把握に努めており、さらに英国の渡航者における疾患のサーベイランスを行い、その結果をアドバイスに反映させている。さらに、黄熱ワクチン接種機関としての認定に必要な初期コース(1日)、その後3年ごとに受講する更新コースを開催している。このようなNaTHNaCの特徴ある活動は、ロンドンやリパプールの熱帯医学校などを中心とした英国における熱帯医学の長い伝統に裏付けられている。
 近い将来の国際保健規則(IHR)の改定に伴い、黄熱ワクチン接種機関の認定が簡略化され、基本的には各国の判断で接種機関の認定が可能となるが、これを機会にわが国でも何らかの形の研修・認定制度を確立し、渡航医学における“質”の維持・向上を目指すことが望まれる。
d.トラベルクリニックでの受診者対応
 受診者の対応に当たっては、訪問国、渡航期間、疫学データ、予想される行動パターンなどから疾患リスクを適切に評価する。その後、それらの疾患の概略(疫学データ、原因、症状、治療、予後)、予防のための行動上の注意につき説明する。そして、予防のための媒介動物対策(防蚊対策など)、ワクチン接種、予防内服(マラリア)、自己治療(旅行者下痢症)/スタンバイ治療(マラリア)などのオプションにつき、それぞれの長所と短所をバランスよく説明する。基本とするところは、受診者の考えを引き出し、本人が納得の行く自己決定をできるように促すことであると思われる。しかし一方では、受診者がアンバランスな考え方をしていると思われる場合には、専門家としての医療従事者の考えも述べる必要があろう。この様に、最終的には受診者の決定にゆだねることになるが、予防に関しては種々の因子を考える必要があり、しかも受診者個人がどの因子を重視するかは様々であるので、治療の場合とは当然異なるものとなる。なお、渡航中および帰国後に発病したときの対処につき説明することも必要であるが、特にマラリアあるいはその疑いの場合にこれが不可欠である。

3.ワクチン接種のあり方について
a.定期接種との違い

 定期接種は個人防衛以外に社会防衛を大きな目的とするものであり、社会が発意し、費用負担も社会が行い、接種に由来する健康被害については予防接種法(BCGワクチンでは結核予防法)で社会が手厚く補償する。これに対してトラベルワクチンの接種では個人防衛が主たる目的であり、個人が発意し、費用負担も基本的には個人が行い、健康被害については医薬品副作用被害救済制度があるが、予防接種法ほどは手厚くない。このような理由からトラベルワクチンの接種では、インフォームドコンセントの内容が後日問題にもなりかねない。費用対効果については、定期接種ではときに良いことがあるが、トラベルワクチンの接種では決して良いとは言えない。ただしこの様な費用対効果については、渡航者自身が考慮することは少ないであろう。
b.ワクチン接種の優先度
 トラベルワクチン接種に当たって考慮すべき因子は多数あるが、それらを表に示した。これらの因子の多くは、マラリアの予防内服あるいはスタンバイ治療、旅行者下痢症の自己治療を選択する際にも共通することである。「ライフスタイル、感染リスクに対する態度」などは渡航医学独自の因子と思われる。これらの因子のどれを重視するかについては、受診者の意見が分かれることが十分ありうる。
 これらの中で一般的に重視されるのは、疾患の罹患率と重篤度(致死率および後遺症発生率)であろう(図)。通常はこの両者が高いほど、ワクチン接種の優先度が高いと判断される。しかし実際には、罹患率と重篤度のどちらか一方のみが高くて他方が低い場合も多く、ワクチン接種に関して迷うことにもなる。例えば狂犬病の場合、罹患率は一般に極めて低いが、発病したら現代の医療技術をもってしても致死率100%と言って良い。最近、米国で狂犬病に罹患した1例で昏睡療法を行い、救命できた症例が報告されたが、その後にも有効性が確認されているわけではない。従来、インフルエンザはトラベルワクチンの対象ではなかったが、最近ではクルーズ船その他の旅行形態においてワクチン接種が重要視されつつある。別の見方として、当面の渡航でリスクがあるだけでなく、国内においてもリスクとなる疾患の場合、またワクチン接種による免疫状態が長期間続く場合には、それらのワクチン接種の優先度が高いと判断される。これにはA型肝炎、B型肝炎、破傷風などが該当する。
 渡航者における感染症の罹患率については、古くは渡航医学の開祖的存在であるR. Steffen氏らのデータがあり、その後も種々の人々から報告がなされている。しかし世界には種々の地域があり、種々の行動パターンを取る渡航者があるので、全ての状況に適用可能な罹患率のデータが揃っているとは言えない。また、途上国における衛生環境の改善に伴い、10〜20年前のデータが古くなっていることもありうる。具体的には、従来欧米の渡航者ではA型肝炎の罹患率が3/1,000/月(場合により20/1,000/月)で、腸チフスよりも高いと言われてきたが、最近のカナダ人およびスイス人旅行者でのデータでは、その約10分の1程度に低下しており、腸チフスよりも高いかどうかは疑問になっている。このように、渡航者における罹患率のデータについては、その限界も知っておく必要がある。なお、日本の渡航者における感染症の罹患率は示されていないが、筆者らは近々それらのデータをまとめる予定である。
c.欧米におけるワクチン接種のデータ
 欧米では、渡航者の事情で必要なワクチンが受けられなかった場合のワクチン接種法につき、多くのデータが出されている。わが国でも一般的になりつつある複数同時接種であるが、生ワクチン、不活化ワクチンの多くの組み合わせにおいて、免疫原性、副反応の両者において問題ないとされている。ただしある種の多糖体ワクチンにおいて、免疫原性の問題がみられたとの話がある。接種を受ける国が変った場合、異なる製品のワクチン接種を余儀なくされることがある。現在の欧米のA型肝炎ワクチンの場合、2回接種で基礎免疫が完了するが、1回目接種をHavrixで行った後、2回目接種を他のA型肝炎ワクチンであるAvaxim、Vaqta、あるいはEpaxalで行っても免疫原性、副反応の両面で問題ないとの結果が得られている。
 また、渡航までに時間的余裕がない場合を考慮し、狂犬病ワクチン、B型肝炎ワクチン、ダニ媒介性脳炎ワクチンなどで、0-7-21(あるいは28)日の期間短縮接種(accelerated immunization)が行われている。さらに、場合により1回の接種でも、短期間であるが抗体獲得がなされることが示されている。A型肝炎ワクチンの場合、Havrixの1回接種で13日後に79%が、19日後には全例が抗体陽転し、Avaximの1回接種でも14日後には78〜98%が抗体陽転している。そのため、A型肝炎の潜伏期間(2〜6週間)を考慮すると、仮に出発当日に1回ワクチン接種をするだけでも意味があるとされている。また、腸チフスに対する注射莢膜多糖体ワクチンでも、出発1週間前に1回接種すれば、70%以上で抗体獲得がなされると言われている。
 欧米のA型肝炎ワクチンは4種類ともに2回目接種が6ヶ月〜1年6ヶ月となっているが、Havrixでは24〜66ヶ月後あるいは4〜8年後でも、Vaqtaでは6〜18ヶ月後でも、Epaxalでは18〜54ヶ月後でも十分なブースター効果が得られると報告されている。さらに、A型肝炎ワクチンの2回接種による基礎免疫の後、追加接種をどのように行うべきかにつき検討が行われたが、その結果、「健常者では、その後の追加接種が必要であることを示すエビデンスはない」と述べられている。
 これらの欧米のデータから何を得ることができるのだろうか? わが国では殆どが国産のワクチンであり、厳密にはこれら欧米のデータがそのまま適用できるとは言い難い。それは一面では、わが国でこの分野での研究を行なう余地があるとも言える。しかし、国産ワクチンに関する限られたデータからは判断できない場合、この様な欧米のデータを参考にするのも有用なことがあるのではなかろうか?

4.おわりに
 本稿ではまず初めに、渡航医学の特徴と思われる事柄を示したが、従来の専門分野とはかなり異なることが理解されたと思う。ワクチン接種は、マラリアの予防内服/スタンバイ治療、旅行者下痢症に対する自己治療などとともに、渡航者に対するinterventionとして重要なものであり、実際最も多く行われている。今回述べたように、筆者のワクチン接種に関する関心事は1) ワクチン接種の優先度、2) 不規則な接種における技術的問題の2点に集約できる。トラベルワクチンの接種については種々の切り口での取り組みが可能であろうが、今後の渡航医学の発展のために同好の士と、上記のテーマについてのディスカッションを続けて行きたいと思っている。

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