運動の発端
海外における人体用ワクチンの実情を知るためにヨーロッパを旅行中、ドイツ国マールブルグにある一メーカーを訪問した。その会社の業務の説明ではここで生産されるワクチンのなんと16%が渡航者用であると聞いて驚いた。日本では渡航者用ワクチンという項目を聞いたことがない。帰国後早速日本の代表的なワクチンメーカーに「製造されるワクチンのうちどのくらいが渡航者用を考えているのですか」と聞いたところ、一瞬戸惑った様子であったが、「はっきりしませんが1%も無いと思います」という返事であった。この日本と海外との大きな格差を知り、何とかしなければと考えたのが私達の運動の発端であった。
1999年、有志が集まりアベンティスパスツール社の支援を受け、「トラベラーズワクチン会議」を設立、2000年6月まで3回の研究会を開催し、日本におけるトラベラーズワクチンの振興、普及促進策について話し合った。2001年12月熊本で開催された日本ワクチン学会総会でトラベラーズワクチンに関するランチョンセミナーを行った。
このセミナーの討議に基づき、東京で2003年10月「トラベラーズワクチンフォーラム」の第一回会合が持たれ、以後現在まで5回の研修会を開催し、知識の啓発に努めた。またこの運動の継続の為にはある程度の自己資金が必要との認識から、2005年4月「海外渡航者予防接種推進事業」を立ち上げ、23
名の有識者が発起人となって、趣旨に賛同する企業会員を募集中である。この事業の事務局はNPO法人バイオメディカルサイエンス研究会にある。
日本の渡航者の実情
日本人の海外渡航者は近年急増し、2003年には日本の総数は年間約1700万人と記録されている。これらの渡航者には観光を主目的とする短期旅行者が多いが、一方で留学、赴任、出張など比較的長期の旅行者が含まれている。1998年の資料では海外渡航者総数の86%は10日以内の短期旅行者であった。これら短期旅行者の関心は世界の観光を如何に安い費用で行うかにあり、斡旋する旅行業者も安価に旅行をまとめる方策に努力を払っている。したがって旅行者本人はもとより、旅行斡旋業者もトラベラーズワクチンの費用は計画から切り捨てるのが通例となっている。
日本人の危機感覚
戦中から戦後にかけて日本には感染症が多種、多数存在し、とくに戦後の荒廃した日本では発疹チフス、天然痘、狂犬病、コレラ、腸チフス、赤痢、ポリオ、A型肝炎等、途上国を凌ぐ感染症の巣窟であった。ところが戦後60年以上を経た現在では、日本の感染症はすべて著しく制圧され、周辺途上国との格差は拡大されている。多くの日本人旅行者はこの格差への関心が極端に薄い。その結果、海外にあるわが身が感染症の危険にさらされているという警戒感が欠如している。日本では環境衛生が改善されたため、過去40年間A型肝炎の大きな流行が無い。その結果、40才以下の日本人にはA型肝炎に対する免疫抗体が殆ど無い。このような現状において、東南アジアの途上国等では感染の危険が極めて大きいことを知っている日本人がどのくらいいるだろうか。
感染症に対する警戒感の希薄化は日本の医療機関にも広く存在している。この傾向は単に規模の小さい診療所ばかりでなく大病院もその例外ではない。マラリアや腸チフス、狂犬病の診断が迅速に下せない大学病院も稀ではない。
トラベラーズワクチンとは
トラベラーズワクチンとは、とくに海外渡航者に勧められるワクチンのことである。この中にはポリオ、破傷風トキソイドのように日本の予防接種法に含まれているワクチンもあるが、日本では極めて感染の危険が少ないか、または存在しない感染症に対するワクチンが含まれている。前者のワクチンは当然日本で認可されたワクチンであるが、後者のワクチンは未認可のワクチンである(表1)。
表1.トラベラーズワクチンの実例
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認可ワクチン
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未認可ワクチン
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破傷風トキソイド
B型肝炎ワクチン
A型肝炎ワクチン
ポリオワクチン
日本脳炎ワクチン
麻疹ワクチン
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黄熱ワクチン
髄膜炎菌ワクチン
腸チフスワクチン
コレラワクチン
ダニ脳炎ワクチン
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認可ワクチンでも日本で接種を受ける場合、予防接種法で年齢が定められており、海外渡航の際にはすでに接種後永い年月が経っていて免疫が低下していることが多い。またA型肝炎ワクチンでは14才以下は対象年齢から外れており、B型肝炎ワクチンはキャリアの母親から生まれた子、あるいは患者と接する機会の多い医師、看護士のように感染危険度の高い人だけが対象となっている。しかし、渡航者では広範な年齢層が対象になる。コレラワクチンのような場合、予防接種の補償は受けられるが、予防接種費用は自己負担となる。
未認可のワクチンを受けるには、ワクチンの購入を含めてすべて費用は個人負担である。黄熱ワクチンの場合は国際衛生規則により義務付けられているので、例外的に検疫所または国で定められた場所でしか接種を受けることができない。
腸チフスワクチンや、コレラワクチンは昔日本で受けたものとちがって、現在薦められるのはその効果、安全性がはるかに優れたものであり、効果は70〜90%以上と云われ、副反応も殆ど無いものである。コレラワクチンは経口投与のものが使用されている。
渡航者の予防接種にはネガティブな問題も起こる。日本ではBCGは予防接種法で義務とされ、生後3ヶ月から1才までに受けるが、米国では使用されていない。しかし、米国では結核の輸入を恐れてツベルクリン検査は義務付けられている。日本人の子供が米国の学校に入学しようとすると、BCG接種による陽性は結核感染を疑われ、医師による結核否定の証明が必要になる。また、麻疹ワクチンの場合には2回接種の予防接種証明書の他に、麻疹抗体陽性の証明書も必要となるので注意が肝要である。
髄膜炎菌髄膜炎ワクチンの場合、抗原型により種類が異なるので、渡航先の実情を問い合わせた上で接種を受ける必要がある。
当面の問題
1) ワクチンの入手方法:日本で認可されているものは購入できる。未認可のワクチンは外国製のものを個人輸入しなければならない。この手間と費用はばかにならないので、医師に専門業者を通じて輸入手続をとってもらうことになる。
2) どこで受けられるか:個人輸入を引き受けてくれる医療機関にかぎられる。現在は日本全国でその数は限られているが、渡航者の便宜を考えると各都道府県に一箇所くらいは存在して欲しい。3)
ワクチンに関わる事故が発生した場合:予防接種法対象ワクチンには法による救済制度が適用される。その適用外でも認可ワクチンであれば薬害救済制度の対象になる。しかし、未認可のワクチンに対しては現在なんら補償は受けられない。私達は海外旅行保険の項目の一つとしてカバーできないか大手保険会社と交渉中である。
渡航者への情報提供 渡航者が安全に海外で過ごすには、滞在先の感染症情報を知ることが第一条件となる。現在、外務省、労働福祉事業団海外勤務健康管理センター、検疫所、世界保健機関等各種のホームページで情報を得ることができるが、先ず旅行斡旋業者がその手助けをすることが望ましい。できれば国は業者の義務として指導してもらいたいものである。